トルストイ「アンナ・カレーニナ」を読み終えた瞬間、私は娘に電話越しで最終ページを音読していた。
先日の仕事の定休日の午後。我が書斎で、ひとときの読書。最後の頁にさしかかった時、携帯電話が鳴った。娘からだ。たわいもない話しをした後、(私)「実は、大分かかったけど小説アンナ・カレーニナの最終ページを読んでいたんだよ」、(娘)「そうなんだ」、(私)「最後のページ、このまま音読していい」、(娘)「いいよ。読んで」。携帯電話口で私が読み上げる
「おれは今までと同じように、自分の恐怖のために妻を叱りつけ、それを後悔することだろうし、相変わらず、何のために祈っているのか、理性ではわからぬながら、祈ることだろう。だが、今やおれの生活は、おれの生活全体は、この身に起こるすべてのこととは関係なく、一分一分が、以前のような無意味なものでないばかりか、疑う余地のない善の意義を持っているのだし、またその意義を自分の生活に持たせるだけの力がおれにはあるのだ!」
(私)「どう。分かった」、(娘)「分かんない」
アンナ・カレーニナは主人公の名前だ。
主人公のアンナには夫カレーニンがいる。そして彼女は青年将校ヴロンスキイと恋に落ちる。
一方で、レーウィンという人物の人生と思想が、もう一つの大きな軸として描かれる。
<関係図>
オブロンスキイ ー(夫婦) ー ドリー
│(兄妹)
アンナ ー(夫婦)ー カレーニン
│(恋愛)
ブロンスキイ
│(元想い人)
キティ ー(夫婦)ー レーウィン
小説の冒頭、アンナの兄オブロンスキイの不倫騒動から話しは始まる。「アンナはどこから出てくるのだろう」と思いながら読み進める。オブロンスキイは、アンナの兄だと大分、後で分かる。
それが分かる前後にレーウィンが登場し、アンナや様々な登場人物の間での恋物語が綴られる。
人生というのは不思議なものだ。人間というものは不思議なものだ。命というものは不思議なものだ。生というもの、死というもの、全ては不思議なものだ。
だから、宗教が生まれ、信仰が生まれ、小説が綴られ、哲学が語られるのか?
読書前から、アンナは自殺するという知識はあった。恋愛小説的とも聞いていた。そんなものでは語れないことも読み終えて思う。
登場人物の言葉、心象が見事に綴られている。人物だけではない。猟犬ラースカの心の動きまで描かれる場面には驚かされた。犬が言葉を話すわけではない。しかし、その戸惑いや期待がまるで言葉を持っているかのように伝わってくる。
ある時は、アンナが。ある時は、カレーニンが。ある時は、ヴロンスキイが。ある時は、レーウィンが。あまたの登場人物の心象、言葉が一つの事象を中心に語られるのだ。
アンナとヴロンスキイの出会い。アンナとヴロンスキイの別れ。その決定的な場所が、汽車であり、駅だ。
人生は不思議なもので、だれと出会うか、いつ出会うか、どこで出会うかで全く違う人生が展開される。
第8編。終末に近いところで、
「有機体、その崩壊、物質の不滅、エネルギー保存の法則、進化など、これらが、かつての信仰にとってかわった言葉だった。これらの言葉や、それに結びつく概念は、知的な目的のためには実に立派なものだった。が、人生のためには何ひとつ与えてくれなかった。そのためレーウィンはふいに、ちょうど、暖かい毛皮外套を薄いモスリンの服と取り替えた人間が、厳寒にさらされてみて、はじめて、自分が裸同然であり、苦しい死は避けられないことを、理屈などではなく、自己の存在全体ではっきりと納得するにいたるのと、まったく同じ状態におかれた自己を感じた。」
「ミーチャが目をあけたり閉じたりしながら、たえずかすかに振っている、手首を細い糸でくくったようにむっちりした手を、やさしく握りしめてやった。」
「アンナ・カレーニナ」を読んで人生が開けた。希望が持てた。小説「アンナ・カレーニナ」の題名も小説「カレーニン」でも小説「ヴロンスキイ」でも小説「レーウィン」でもいいと思ってしまった。若い頃の私ならアンナの恋愛や悲劇に目を奪われたのかもしれない。しかし62歳になった今の私の心に残ったのはレーウィンだった。人生の意味を問い続けながら、それでも生きる希望を見出していく姿に深く共感した。
62歳の今になって、私はようやく読書の本当の喜びを知った気がする。
そして限られた人生。どれだけの名書、良書の大海原への大航海に出航できるかと、喜びに胸打ち震える思いである。
※中央公論社刊
世界文学セレクション トルストイ アンナ・カレーニナ 原卓也訳 1994年出版


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