定年本が花盛りである。人生の節目として多くの勤労者が「雇用関係の終了=職場という居場所の喪失」で人生の大きな節目を迎えるのが定年だ。図書館に行くと行き場を失ったかのように屯(たむろ)する60代、70代位の壮年を見かける。自分もそうなりたくないと心では思っても、どうなるか分からない。
定年後はこうあらねばならないは幻想。ありのままの自分で、毎日を楽しく、家族を大事にしながら、毎日の出来ことを楽しみ悲しみ成長していく人生を過ごしていくだけだ。
定年を迎えた今の自分の状況
本年3月に60才になり還暦おじさんになった。「還暦」という冠を被っただけである。その冠は透明だから言わなければ誰にも見えない。その3月末日が定年退職日となった。そして翌4月1日より雇用延長となった。変わったことは4月25日に現れた。給与の振込額が前月までの7割位になったのである。
多くの先輩から「ガクンと減って大変だ」「大変だ」と聞いていたから、そんなもんだとは思っていた。確かに支給額が減ったうえに住民税は変わらないので減った感は間違いなくある。しかし、還暦おじさんの感想としては「これだけ頂ければありがたい」というものだ。もし、雇用延長も認めてもらえず、今の会社から万一放り出されたら自分はいくら稼げるのだろうかと考えた。
雇用延長で5年後にホントの定年を迎える
あと5年は切ってはいるが間違いなく65才で雇用延長は終えるし、万一会社から残ってくれ(絶対にないと思う)と言われても残るつもりはない。と言うことは、「雇用関係の終了=職場と言う居場所の喪失」を迎えることになる。巷にある「定年本」には、定年後こうあらねばならないとか、定年後はこうであってはならないという言説がほとんどだが、それらを切りまくっているのが「定年バカ」なのだ。
『トヨタ「65歳以上を再雇用」へ、8月から全職種に拡大…70歳まで雇用可能に』(2024/5/8付読売新聞オンライン)とあるように日本の人口減少や社会構造の変化により雇用環境の変化が起きている。何歳まで働かなければならないとかそういうことではなく楽しく波乗りをしていくようにその時々を楽しみながら生きていきたい。
「定年バカ」を読んで気持ちが吹っ切れた
定年後に続く、20年、30年という人生を思うと、人はいろいろと考えてします。生きがいは?健康は?老後資金は?などなど。しかし、多彩な趣味や交友、地域活動などを通じて充実した定年後を送ろう、いや送るべきという「圧」が昨今やたら強くなってはいないか?無理して「地域デビュー」なんてしないほうが互いの幸せだったりもする。「なにもしない生活」だってありなのではないか。
勢古浩爾著「定年バカ」SB新書より
この超高齢社会では、古い既成概念にとらわれる必要はない。定年後はこうあるべきという「圧」をはねのけ自分は自分、ありのままで「なにかをする」とか「なにもしない」とかではない人生を送っていきたい。
何も人生こうあるべきかなんて、だれかに言われるべきでもないし、言われても参考程度にしておけばいい。これはいいと思えば大いに自分の人生に取り入れればいいし、必要なしであればそれはそれでいいのである。
自分は自分でありのままでいい
わたしは「定年の達人」などいない、と書いた。しかし、もしいるとしたら、有名無名を問わず、自分で考え、余計な不安などなく、自足して(自分なりの意味を信じ)、ふらふらしていない人がすべて「達人」である。
「定年バカ」第8章「終活バカ」より
今年の3月31日から4月1日に日が変わる時に、定年を迎えた私に何か変わったことは何もないのである。だから、約5年後の2029年3月31日からその年の4月1日を迎える時には雇用延長の正式な終了になる時も何もないのである。会社からの給与はなくなるが年金が入るようになるくらいだ。ただし、年金は自分で裁定請求をしなければならない。
定年はこうでなければならないは幻想
「人生はこうあなればならない」とか「人間はこうあるべき」は糞くらえだ。定年はこうでなければならないは幻想だ。
還暦おじさんは、枯れ木おじさんではないのである。孔子の「論語」に曰く「三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従う」でようやく耳順でひとのことばがすなおにきけるようになった。
憂鬱な人生さらば!悲惨な人生さらば!愚かな人生さらば!無駄な道は歩むまい!絶望の道を歩むまい!賢くありのままに生きていくのが定年だ!
ありのままの自分で、毎日を楽しく、家族を大事にしながら、毎日の出来ことを楽しみ悲しみ成長していく人生を過ごしていくだけだ。
コメント